(すみません。長文は、1行19文字だとパソコンでは

読みにくいと感じたので、変更いたします。)

 

 

今回は、少し長くなりますが、

「現代西洋医学」の問題点するための大事な

ポイントを、

森下敬一先生の著書

「自然医学の基礎」(1980年初版)

ら抜粋してご紹介したいと思います。

(私が本にマーキングしているところは赤色にして

います。)

 

 

自然医学の基礎 

 

 

 

それではレッツゴー!

 

338ページより 

(略)西洋論理の四大定律というのは、先述べた

とおり、

 

♦ 物事をきわめて直線的に考える。直線思考なのだ。

 

♦ 不可逆的である。可逆的に物事を考えない。鉄砲玉

みたい行ったきりで帰ってこない思考様式である。

 

♦ 分析的である。そして、局所的である。物事を細かく

細か掘り下げていくのだ。そして、最終的には森の中に

迷い込んだ猟師みたいなもので、西も東もまるっきり見当

がつかなくなる。

目先の獲物だけを追っかけることだけに終始することに

ってしまう。

 

♦ 排中律である。黒でなければ白、白でなければ黒で

ある・・というように真ん中の状態を抜いた考え方を

するのだ。

間体である微妙な部分は省いてしまった極端な考え方を

しがちである。

 

(略)科学(サイエンス)という学問はもともと

ヨーロッパでまれた学問だからで、

その根底にはすべてこの定律があるのだ。

 

直線思考であり、不可逆思考であり、分析思考であり、

中律なのだ。

 

科学そのものが、すでに機械論なのである。

 

したがって、すばらしく早いスピードで走るクルマや、

超音速飛ぶジェット、他の天体に送り込む宇宙ロケット

をつくる、というような面では、科学はめざましい威力を

あらわす。

 

しかし、自然現象とか、生命現象などに対しては、それは

全くメなのだ。

 

自然界には直線的なものなどは、何一つない。すて波動

である。そして、必ず元の時点にもどる。

これは四季の移り変わりがあることでもわかろう。天候が

不順だとか、常気象だとかいいながらも、

はり冬になれば寒くなり、夏は暑くなり、日本の場合

なら夏の前にはちゃんと梅雨がある・・・というように、

自然は必ず回帰してくる。

 

そして、「そんなことをするとバチが当たりますよ」と

いうことを、われわれ日本人は極くふつうにいったりす

が、

これは物事は回り回って元のところへ戻ってくるという

因果応報の発想であり、つまりは回帰の思想、輪廻の思想

だ。

東洋の考え方の根本にはすべて、この思想が流れている。

 

これは東洋に独自のもので、西洋にはない思想なのだ。

 

それから、西洋思想では、物事を局所的にどんどん掘り

下げてく。現代の生命科学、とくに生物学、その中でも

人間の医学においては、そのやり方が顕著だ。

 

人間の体に関するいろいろな問題を考えたりする場合も、

部分分を大変に細かく調べあげる

すなわち、血管とか、神経や目玉や鼻とかいった体を構成

る要素を、それぞれ個々に調べあげて

詳しいデータを得る。

 

れらをすべて集大成すれば、それが体そのものについて

の詳しいデータを得たことになる、

いう考え方をもっているのだ。しかし、実際にはそんな

ことはあり得ない。

 

東洋人ならば、極くふつうの人でも、というより

西洋かぶれしいない常識人ほど、

体の部分部分の細かな知識を寄せ木細工のように集めた

ところで、生身の体のことがわかるはずはなかろう、

ということは実感として直感的にわかるもの。

 

ところが、西洋人になると、よほど優秀な、今世紀を代表

するいわれるような医学者や生物学者においてさえも、

その点がどうしても十分には納得できない。

 

部分の寄せ集めで全体が分かるはず、という考え方を

もっているからだ。基本的思想とは、まさしく骨がらみ

なのである

 

 

そのように生命の本質というものが、

どうしてもわからない精的土壌から生まれた科学に

って、生命の問題が解かれようとしているところに、

大きな問題が生まれているのだ。

 

生命の科学それ自体にとっても、人間自身にとっても、

きわめて不幸な事態が生み出されているのである。

 

 

いま、分子生物学的に細胞機能を解明して、遺伝子の構

や仕組が明らかになったとか、遺伝子の組み替えによって

く新しい性質の生命体を合成するとか、いろいろなこと

がいわれている。

そして、こういう研究がもっともっと進んでいけば

いずれは、生命とは何か、人間とはなにかということが

すっかり解明されるようになるであろう、というように

えられている。

 

けれども、これは、全くの幻想にすぎない。

 

このような研究は

早晩カベにぶち当たって必ずダメになろう。

なぜなら、人間の健康にかかわる現実的な問題は、

それでは何一つ本当には解決できない。

また、基本思想が、生命科学問題の処理に必須不可欠な

軟性をもっていないのだから、理論的にも必然的に

きづまらずを得ないのだ。

 

 

生命とは、あくまでも全体だ。バラバラに切り離したら、

本質もう捉えられなくなる。

切り離し操作を加えた瞬間から、

命の質は変わってしまうのだ。

 

全体の中で有機的に機能している「一部分」と、

全体から切りされた「一部分」とでは、

じ部分でも全く異質のものになってしまっている。

 

だから切り離された部分について、仮りに百%解明された

としても、その部分の本質はすでに「もとの全体の本質」

とは全く違ったものになってしまっているから、

体の問題を解明する上では役立たない。

むしろ、誤った解決法を導きやすく、しかもそれについて

の詳細なデータが、数字に弱い人間の目をくらませるだけ

に、大変に困った結果を引きおこすことになる。

 

 

日本食の代表の一つとして、いまや世界的に有名になって

いるシミを例にとってみると、理解しやすいだろう。

 

生きているカツオを一本買ってきて、手だれの料理人が

それをばやくサシミにおろす。そして、次の瞬間,直ち

にサシミにした肉切れを元どおりの位置にもどし、

生きていたときのカツオの姿に組立てた、としよう。

では、そのカツオを水に放つと泳ぎ出すかというと、

決してそんなことはない。

なぜなら、サシミという肉片に切り裂かれた瞬間から、

それは元のカツオとは別のものに変化してしまっている

からだ。

 

サシミはもはや生きているカツオの一部ではない

それはあくまでもカツオから切り離された

全く異質の何物かなのだと考えなければいけない

 

最近はきわめて優秀な接着剤があるが、それを用いて、

サシミにつくった後、瞬間的にくっつけて元の状態に

戻したとしても、事態は変わらない。

いったん切り離したが最後、別のものになってしまって

いるわけだから、生きているカツオにはなり得ないのだ。

 

 

 

 

一般の医学における研究対象(材料)の扱い方も、それと

じ。

とくに顕微鏡を用いて組織学的に詳しく調べるやり方は、

そっくりだ。まず、体からある組織を切り取る。

それをアルコールで固定したり、特別な機械で極く薄い

切片にしたら、

それに色をつけて、顕微鏡でながめる・・・

という段取りでおこなう。

むしろサシミとして料理されているというより、

花カツオを用いている状態だ。

花カツオを買ってきて、それをいろいろと調べ、生きて

いるカツオについて知ろうとしているのと同じなのだ。

 

むろん花カツオでみられる細胞は、生きているカツオ

それとはまるっきり違った状態の細胞。

いくら花カツオを研究しても、それで生きているカツオの

ダイナミックな生態というものを知るわけにはいかない

 

 

 

 

医学における研究が進歩しているということが

盛んにいわれるれども、本質的には、

花カツオ・レベルでの研究

がおこなわれているにすぎない。

 

 

もともと、局所というものは、全体の中にあってこそ

意味をもているものだ。

統合体の一部分という意味での局所は意味をもっている

けれども、切り離されてしまったら意味はなくなる

第一、全体の中の一部分であるからこそ局所といい得る

のであって、切り離された局所というのは、言葉の上でも

矛盾している。

 

そんなものは存在し得ないのだ。全体から切り離された

局所というのは、それはもはや、局所でさえない。

 

それ自体が独立した、全く別物になってしまっている

のだ。

 

だから、その “いわゆる局所” すなわち全く別物に

なってしまったものについて、いくら十分な研究がな

れても、それで元の生きている全体を推し測るわけには

いかない。

 

生命問題を扱う場合には、この全体ということの本義

しっかりと念頭に置いてかからなければならない。

 

機械や車などだったら、部品をそれぞれうまくつくり、

それをしい位置にくっつければ、全体として機能する

ものとなる。

この点が、

機械と生命体との根本的な、決定的な違いなのである。

 

 

われわれの体の各部分は、機械における部品とは

根本的に異質存在であることを理解しなければならない。

 

この辺についての考え方は、しつこいほど突きつめて

いって、

本質をはっきりとさせること、

つまりしっかりした哲学をもつとが、きわめて巧妙な

まことしやかな論議に惑わされないようになるために、

不可欠なのである。

 

 

それなのに医学者たちは、非常に単純に考えていて、

全く頼り

ならない。

何か、その辺にある積み木でも持ってきてくっつけた

生命体が出来上がるとでも考えているのではないかと

えるほど、単純な発想で生命問題を考えている。

だから、一般の1人びとりがしっかりしなければならない。

 

 

それから、排中律も、生命科学においては全く始末に困る

考えだ。

排中律というのは、

全てのものは白か黒かのどちらかである、という発想

である。

 

自然界においては、典型的な白だとか、典型的な黒だとか

いうのはきわめて少ない。むしろ無に等しい状態と

いってよい。

現実に存在しているものはすべて、

白か黒の間の灰色なのだ。

れわれの生きているこの現実の世の中は、すべてが

動いているわけだから、

物事が極まって、しかも静止している状態である典型

的な白とか黒とかいうものはあり得ない。

 

すべては、白→黒へ、

あるいは黒→白へ移行しつつある

中間体としての灰色なのだ。

べてはプロセス、移行型なのである。

だから、典型的な白や、典型的な黒がもしあったとしても、

それはある瞬間にしかあり得ない。

すぐに中間体に変わってしまうのだ。

現実はすべて移行状態だ。しかも連続相なのである。

すべては、全体としてつながっている。

その時どきで違った側面をあらわすから、個々に異なった

姿をしているだけなのだ。これが生命体の実体だ。

 

だから、排中律では生命現象は理解できない。

排中律とは、移行状態とか、連続相とかいった事柄を、

完全に無視する発想だからである。

 

 

 

 

今日はここまで、続きはまた明にしたいと思います。

 

 

本日は以上です。ありがとうございました。